常に辛さを乗り切って目標にチャレンジ
する心でありたい
 「私が車イス生活を送るようになったのは高校2年生の9月でした。突然の交通事故で、何がどうなったのか分からないまま入院。勉強は好きじゃなかったけど、友情が大切だから早く学校に行きたい、おしゃべりもしたい・・・・。そんなことばかり考えていました。でもなかなかベットから動けない足の感覚も戻ってこない・・・。先生は何も言ってくれない、毎日のように「何時になったら退院できますか」と聞いても「もう少し頑張ろうね」そんなあいまいな返事しかし帰ってきませんでした。でもそんなある日、同じ病棟に入院していた車イスの男の人と話していたら、なにげに「僕の様にあんたもう歩けないよ」と言われ自分が二度と歩けないと言うことを知り頭の中は真っ白、一時放浪状態となりショックでした・・・・・・、と言うよりも「歩けない」と言う言葉の意味が理解出来ませんでした。私と同じように怪我をした人の中には、歩けないなら死んだ方がましだと思った人も沢山居るようですが、“私は歩けない=死”と言う考え方は出来ませんでした。

 車イス生活は大変かもしれない、でも、もしかしたら何か良いことがあるかもしれない、そう思いながら退院しました。でも世の中はそんなにも甘くない!外出して気づいたのは振り返って見られ人の目って、こんなにも冷たいのかと言う事です。確かに車イスは目立ちます。でもそんな目で見なくても・・・・・と思うと・・つい「見てんじゃねえよ!」と言う言葉が出ることもありましたが今思うと若かったなぁぁと笑っています。そんな私も18才でオムロン太陽に入社し、それと同時に
‘車イスバスケットボール’を始め、仕事とバスケの日々がスタートしました。

 慣れない、仕事で疲れているはずなのに、体育館に行けば自然に体が動く。疲れも吹っ飛び毎日が楽しくて仕方なかった。しかし、そんな楽しいことばかりではありませんでした。あるときコーチより「全日本の合宿に行ってみないか、選ばれたら海外に行けるぞ」の言葉に私はつい乗せられて益々バスケにはまってしまったのですが、これまでの練習とは違って、ただ毎日走ることばかりの連続、楽しいはずのバスケが嫌いになりそうでした。太陽の家の1階から7階までの長いスロープを10往復〜20往復走ったり、一番きつかった事は、車イスに大きなタイヤを付けて走った時でした。手はしびれて力が無くなり血豆だらけで、ここまでしないといけないのか、なんでこんなにも辛い事をしなければいけないのか、そんなことばかり考えながら練習をしてた様な気がします。でも、その苦しい練習のお陰で19才で全日本の合宿に参加、21才で初海外遠征に行くことが出来ました。一度全日本に入るともう一度行きたい、そして次のスタートでコートに出たい、そんな思いが強くなり、それからはどんなに辛くても目標に向かって泣き言を吐く暇もなく頑張りました。

 目標があればどんなにも辛くても頑張れる。目標があるって凄いなぁと、つくづく思いました。25才で結婚、26才で長男出産、出産も不安で一杯の中、無事終わり、練習以上に大変な育児が始まりました。大変だったけど何事にも対しても、あまり考えない私は、何とかなるさ、と育児をしながら再度全日本に復帰、以前のような動けなくなりましたが、30才で長女を出産してからも全日本で頑張りながら、トータル4回のパラリンピックに出場することが出来ました。約20年、常に4年後のパラリンピックを目標にし、苦しいこと、辛い事を乗り越えて来た様に思えます。目標があればどんなに大変なことでも乗り超えられる!そう信じて皆さんも何か目標を持ってみては如何でしょうか。

 最後に皆さんは町で車イスをの人を見たらどう思いますか。「かわいそうだな」「大変そうだな」「声を掛けてあげたいな」「お手伝い出来ないかな」と色々とあります。もちろん健常者に比べて大変なことは沢山あります。でも車イスは自分の足なのです。自分が望んで進みたい道、自分が望んで進んで拓きたい道、どんな人でも目標を持つと今以上、それ以上進みたくなり生き生きと輝いて見えます。乗り切る強い信念さえ持ち続ければ逆に楽しくなることばかりです。私はそういう風に見られたいです。」(堀川小百合)

 12月12日大分県竹田市立竹田小学校にて毎年親子で人権講習会に製造で働く堀川小百合さんが出席してきました。 児童(1年〜6年) 約150名およびPTA(保護者・教職員) 約100名の合計約250名の中「私とバスケット・障害になった頃〜バスケットボールに出会って〜結婚・出産・育児〜今・・の講演をしてきました。 子供さんから保護者の方達は真剣な眼差しで聞き入っていました。

バスケと私