障害を持っていても地域の幼稚園や小学校に通わせたい。。。
そう思う親がたくさんいます。

でも実際実現する率って少ないんですよね、
これから先 少しでも多くの子が地域の園や学校で過ごせますように小さな一歩からはじめていき

いつか将来私たちのような同じ気持ちを持つ親の願いが実現しますように


心のバリアフリー


美琴が無事に我が家にきてから大きくなるまで
それはもう、おきてから眠るまで
「刺激」たっぷりの毎日でした。

何があろうと人間には「可能性」があるということ
それを信じていつもいつも
私は ひとりごとのように美琴にたっぷりお話したり
一緒に音や風や光
いろんなことを一緒に感じ
小さな喜びを実感していました

世の中の流れも感じず
ほんとに今ふりかえれば
「没頭」「ひとすじ」


時間が許す限り
自分の体の一部と言っていいくらい
(美琴を抱っこしなかったら重さが変わってまっすぐ歩けない)
ひっついて行動していました

「なんさい?」
「ん◎さいよ、みこちゃんっちゆうんで」
「なんでこれに(車椅子やベビーカー)ノッチョんの?」

「歩けんのやわー〜」

そんな会話はあたりまえ。

私は正直こういう質問大好き

ときどき、車椅子に近づいてくる子供に対して「いけんよ」とか

なんとなく「こっちおいで」と避けたがらせるお母さんいます。。

おばーちゃんたちも障害のことを話すと
「あらむげーねーなー(かわいそう)
ナンの因縁かな」とか
「あーあー、かわいそうに、、、」

お母さんの気持ちもわかります。
おばーちゃんの気持ちもわかります

なんとなく「聞いてはいけない」みたいな気持ちもわかります
「知らないふりして通り過ぎよう」とする「瞳の中」は、感じます。。


だって、自分だってこの子が生まれてくるまでは
そんな風だったんだから。。


こうして美琴といっしょにいて
「これじゃいかん」

「今の小さい子供の頃から美琴(障害児)を知ってもらわねば
このまわりの「瞳」は変わらない」

そんな気持ちでいつも美琴と外に出ていました

だんだん会う時間が重なってくるごと
慣れてきます、
この「美琴」があたりまえって
思うようになってきます

あるときよく会う3歳位の子と遊んでいて
すべりだいをすべっていたら(母の太ももの間に挟んですべります)
子「あ、みこちゃん、すべりだいすべりきる」
私「え???すべりきらんよ」
子「だってほらすべりよん、おばちゃんと一緒にすべりよん」


私はその子に教えられました。。。

そっか、
一人ですべらなくても
こうして手を貸してすべっていても
美琴は「すべってる」んだって。。。

私、なんて勘違いしてたんだろう。
いままで「一緒」ながら
私が「させていた」と思っていたかも

「一緒にしていること」は
美琴自身も「している」んだって。。。。
「一緒に感じていること」は美琴自身も「感じている」んだって

すべりだいも
ブランコも
お砂場遊びも
抱っこして
風を感じて
音を感じて
光を感じて、、
びっくりして
笑って
泣いて
、、

この小さないつも遊んでいる子の一言に教えられ
私はすごくうれしくなりました。。。


こうして外に出ることで
私も
そして美琴に携わる人にも

心のバリアフリー
自然に感じるんじゃないかなって

幼稚園へ